2014年9月13日は僕の人生で最良の日ベスト3に入ります。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が日本で公開された初日です。
ユナイテッドシネマとしまえんのIMAXシアターでの初回を予約して、早起きして意気込んで観に行きました。
IMAX限定特典のポスターをもらいつつ、鑑賞。
これこそが、俺の求めていた映画。俺が観たかった映画。俺のための映画。俺の映画。
その日は午後からバイトでした。興奮し過ぎて「うるさい」と怒られたことを覚えています。
そこから少なくとも一ヶ月くらいは、会う人全員に「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーを観ろ」と言っていたと思います。
本当に、心から、生きていてよかったと思いました。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は僕の“人生の映画”です。
この映画を観るために生きてきたとさえ、思いました。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を初めて映画館で観たあの日。
あの日死んでたらどんなに幸せな人生だったろう、なんて思ったことも何度もあります。
それでも、生きてきました。続編を観るために。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.2』(邦題は知りません)も1作目と肩を並べるかそれ以上とも思える傑作でした。
また、生きていてよかったと思えました。
この映画シリーズと出会えたことは、僕の人生で最も幸運なことの一つです。
映画は人の人生を救います。かなり直接的な形で救うこともできるんです。
僕と同じように、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズのおかげで、
生きることが楽しい、嬉しいと思えたというファンは世界中に沢山いると思います。
『スター・ウォーズ』シリーズはリアルタイムじゃありませんでした。
小さい頃から観てたとかでもないし、好きですけど、俺の映画だ!という感覚はありません。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』とは大学生になってから、ある程度大人になってから出会えたんです。
だから一層、俺の映画!という感覚が強いです。

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズは3部作で完結して欲しいと思っていました。(『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』とかは別として。)
特にアメリカ映画は昔から、一度ヒットすると永遠にシリーズを続けたがります。
でも『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のように3部作でビシッとキレイに終わって、永遠のものになって欲しいと思っていました。
しかしその一方で、僕は「vol.3」を観てしまった後、何を楽しみに生きていけばいいんだろう。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が完結してしまった後の世界で、僕は何を希望にして生きていけばいいんだろう。
と悩んだりもしました。


…………寝耳に水でした。
vol.3の完成を待たずして、僕はその絶望を、
しかもvol.3を観た後の幸福な絶望などとは比べ物にならないくらい深い、本物の絶望を、味わうことになるとは思ってもみませんでした。

2014年9月13日、僕は生きる意味を見つけました。
2018年7月21日、僕は生きる意味を失いました。

ジェームズ・ガンと『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の関係性は、「切っても切れない」とかそんな陳腐な表現では言い表せないほど密接なものです。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』はジェームズ・ガンの脚本と演出、選曲、などなどのセンスがなくては成り立ちません。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は大スタジオ・ディズニー傘下のマーベル製作によるハリウッドのビッグバジェット超大作であると同時に、
ジェームズ・ガン自身のとてもパーソナルな作品でもあり、そのスピリットはほとんどインディペンデントのようだと言っても過言ではありません。
(例えるなら、庵野秀明とエヴァンゲリヲンの関係のような。)
だからこそ、世界中の多くの人々の心に強く響く作品になったのです。


しかし実際の問題は確かに複雑です。

ジェームズ・ガンの過去の発言を、擁護しようとはもちろん思いません。
「ジョークじゃないか」「トロマ出身なのだからあれくらいは言うさ」それは違うと思います。
ジェームズ・ガンの過去の発言は、法に抵触しているわけではありませんが、その発言を見て深く傷つき悲しみ、耐えがたい苦痛を感じたという人が、この世界に一人もいないとは言い切れません。
ジェームズ・ガンは人を殺したわけでも、レイプをしたわけでも、直接的なセクハラをしたわけでもありませんが、もし彼の過去の発言によって傷ついた人が一人でもいるのであれば、それは、彼は法では裁けない罪を犯したということになるのでしょう。
そのことを彼は、一生背負う義務があるのだと思います。
そのことはジェームズ・ガン自身も理解しているように彼のコメントから読み取れます。
しかし、一度でも人を傷つけてしまった人間は、二度と社会で活躍できないのでしょうか。そのチャンスを与えられることはないのでしょうか。
人間誰しも間違いは犯します。
間違いを犯して、失敗を繰り返して、反省して、少しずつ成長するものです。
「はい、成人してから一回でもミスったら終わりでーす、社会から追放でーす」なんていう世の中だったら人生ハードモード過ぎます。
常に、絶対にミスってはいけないという緊張感を強いられる地獄です。

ケヴィン・スペイシーが映画界を(半ば)追放された時も、僕は悲しかった。
それは、「あのケヴィン・スペイシーがそんなことをしていたなんて……」というショックからではなく、彼の新しい演技を今後の映画界で観ることが、永遠にできなくなるのだという喪失感からです。
素晴らしい才能を持っていても人格が優れないという人は、多くいるように思います。
(反対に、人格は素晴らしいけど才能が優れないという人も、多くいると思います。)
ジェームズ・ガンが言ったことを擁護することはできない。
しかし彼が作った映画に心から感動して、心を、人生を救われて、本当に生きていて良かったと思って、続編を観るのが待ちきれなくて、続編を観るんだということが生きる糧に、生きる意味になっていたこともまた事実なのです。
だからどうしても、彼が作る『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』が観たい。
胸が引き裂かれる想いです。この気持ちはどうしたらいいんでしょう。
この世界をより良い社会にしていくためには、ポリティカリーコレクトの考え方は大切だとは思います。
間違った考え、態度の人間を優れた地位に置きっぱなし、大きな権力を与えっぱなしにしておくわけにはいかないとも思います。
しかし、一度でも間違ってしまった人間はすぐにクビを切って、排斥して、片づける、という対処が必ずしも良いとも思えないのです。

どんな人間も潜在的に差別意識というのは持っているものだと思います。
無意識の差別意識を意識下に引っ張り出してきて、理性でもって、いなす。
そういうことが大事で、必要なんです。
自分は差別なんてしません、差別意識なんてありません、みたいな人間が一番危険だと思います。
そういう意味で昨今のハリウッドやディズニーという会社からはちょっと危険な匂いがしなくもありません。
理想を押し付けるのは問題の根本的な解決にはなりません。
差別主義者を徹底的に排除してユートピアを作ろうという思想が生み出すのは結局ディストピアだと思います。

ちなみに、僕の人生を変えた映画が3本あります。
『トイ・ストーリー』と『パルプ・フィクション』と『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』です。
タランティーノはギリギリ生き永らえましたが、3本の映画の監督全員がポリティカリーコレクトを推進する世の中の潮流の中で、糾弾されました。

ジョン・ラセターとジェームズ・ガンはディズニーからクビを宣告されました。
2人共、ケヴィン・スペイシーの時と同じ感覚です。
人は誰でも間違いを犯します。
「あんな素晴らしい映画を作る人だから、きっと人間としても素晴らしい人に違いない!」なんて安い理想論は持っていません。
どんな人にだって間違った過去や歪んだ部分、醜悪な部分はあるでしょう、そりゃ。
だから特別そこに大きなショックは受けないし、それによって“正当な”ペナルティはなされるべきだと思います。
2人共、今後どうしていくのかはまだ分かりません。
きっと、また違う場所で作品を作っていくのではないかと思っています。
私は2人のことを応援しています。
誰かを傷つけた人かもしれない、間違いを犯した人かもしれない。
それでも僕の人生を救ってくれた恩師であることに変わりはないからです。

でも本当に辛いのは、
ジェームズ・ガンの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』を観ることができないことです。
ジェームズ・ガンの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』を観ることができる世界線に自分がいないことです。
ジェームズ・ガンの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』を観ることができる世界線がもしあるのなら、今すぐに時空を飛び越えて行きたいです。

ジェームズ・ガンじゃない他の誰かの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』を観ることがあったとしても、またそれはそれで辛いです。
というか、それって何?一体何?
ジェームズ・ガンから生まれてない『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』って何?それって『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』って言えるの?すごく似てる違う子なんじゃないの。ドッペルゲンガーなんじゃないの。
ジェームズ・ガンがクビになって、
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』を監督することがなくなって、
この世にジェームズ・ガンの『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー vol.3』が
生まれることがなくなったということは、
僕にとってまるで流産を経験したような悲しみです。
なんて言ったら誰かに怒られそうだけど、そうとしか例えようがありません。
元気にこの世に生まれてくるはずだった、唯一無二の、素晴らしい生命のことを想像してワクワクニヤニヤしていたのに、急に産まれないことになった。この世に存在しないことになった。なんだそれ。
喪失感と絶望と憤りと。整理がつかない。
昨日一日中、そんな感覚でした。
いい大人なのに、夜シャワーを浴びながらわんわん泣いちゃうし、
今日も街を歩きながら涙が出てくるし、
立ち直るまでにかなり時間がかかりそう
っていうか立ち直れるか今のところ自信がない。
なんせ、本当に生きる意味を見失ってしまったから。
いちファンである僕ですらそうなのだから、
ジェームズ・ガン本人の気持ちたるや、想像を絶するでしょう。
ジェームズ・ガンの心中を想像してもまた泣けてきます。
ああ、、、本当に悲しい。

ガーディアンズ・オブ・ギャラクシーのメンバーを紹介しましょう。
地球から一人宇宙船で連れ去られ、
宇宙海賊ラヴェジャーズの元で育てられた、
コソ泥のスター・ロードことピーター・クイル。
宇宙の人口の半分を消そうと企むサノスに
故郷の村を壊滅させられながらも彼の養子になり
女暗殺者として育てられたガモラ。
サノスの使いっ走りの一人である
冷酷なクリー人、ロナンに妻と娘を殺されてから、
ロナンとサノスを自らの手で殺すことだけを目標に生きてきた男、ドラックス。
元は人間だったっぽいけど改造されて
アライグマの体にさせられてしまったバウンティハンターのロケット。
そして話せる単語が3つだけの動く木、グルート。という5人組。
そこにvol.2で、
ピーターの父親であるエゴを恐れながら、
彼の召使いをさせられていたマンティスが加わり、6人組に。
彼らは全員、言わばゴロツキであり、
“アウトロー”なんて言ったら聞こえはいいけど、要は反社会的な奴ら。
社会の“正しさ”にはそぐわず、いつも“正しい”人たちに追われ、
いつ捕まって刑務所にブチ込まれるか、死ぬか、分からないという中で生きていた。
そんな彼らに、世界を救えるチャンスが回ってきた。
別に世界が終わろうが何だろうがそれまでの彼らには正直関係ないはずだった。
毎日いつ死ぬか分からないような生活の中で、
とりあえず今日を生きていくためにのらりくらりとしていたのだから。
でも、いざ世界が本当に終わるかもしれない、
でももしかしたら自分たちはそれを止められるかもしれない、となった時に、
彼らの心に残された善良な部分が、それを見過ごせなかった。
そしてただのゴロツキだった彼らはヒーローになった。
本質的にはゴロツキのままかもしれないけど、それでも少し成長したのだ。

ジェームズ・ガンは彼らの物語を描きながら、
自身も一緒に成長したんだとよくインタビューで語っていました。
間違いだらけのロクでもない人間だったかもしれない。
でも『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』という映画を監督するチャンスが回ってきた。
彼は引き受けた。その製作のプロセスの中で、彼はガーディアンズの面々と一緒に成長した。
そして素晴らしい作品を作り、それは僕も含む世界中の多くの人の心を救いました。
そして彼自身もまた作品に救われたのだと思います。

ヒーローも人間。間違いを犯すが、成長する。人は、変わることができる。
どんな人間にも欠点はあるけど、しかしどんな人間もヒーローになれる。
そういう物語を語っているマーベルなのだから、ディズニーなのだから、
10年前のジェームズ・ガンは間違っていた、しかし彼は変わったのだ、と
強気な態度でいてくれたら、とは正直思いました。

「人は変わることができる」それを信じられずに何が映画か。
それを信じられない人たちが映画なんて作れるものか。作られてたまるものか。ちゃんちゃらおかしいわ。
そう思いました。
でもちょっと冷静になった今考えると、ディズニーの判断も、まあ理解はできる。
でも騒ぎが起こってからクビ決定までがあまりに早すぎるだろとは思ったし、
いややっぱ強気でいて欲しかったけど。
ジェームズ・ガンが吊し上げられた経緯も、やっぱり納得いかないけど。
ノイジーなマイノリティーの大きな声にやっぱり屈してしまうんすか。それでいいんすか。
会社としての信条は?ポリシーは?そんなもんあってないようなもんなんすか。
結局ヒット第一優先すか。人の顔色伺って映画作るんすか。それが正解なんすかね?
世相にやっぱ合わせるんすか。声デカい人たちのご機嫌取りがそんなに大事っすか。
映画ってそういうものと闘うためにあるんじゃないんすか。
声が小さくても確実に生きている人たちに寄り添うためにあるんじゃないんすか。
『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』ってそういう映画じゃなかったんすか!!

言いたいことは尽きませんが、
一旦今日吐き出せる分は吐き出しきった気がするのでここらへんにしておきます。

最後に一言だけ。


WE ARE GROOT.